先日昔の写真仲間と会ったときのこと。我々がいま過ごしている時代は、写真が抜け落ちる時代になるのでは、という話になった。長いあいだ写真は「紙」に焼き付けられることで残されてきた。傷み色褪せてもその時代を確実に刻んできた。デジタル画像もメディアの中に残るが、「紙」の持つ存在感とは比べられない。デジタルが劣化しないのは形にならない間だけのことで、その意味でデジタルは形を生み、残すことを必ずしも前提としない、と言えるかもしれない。同じことは文章にもあてはまる。ワープロ原稿やウェブページのデータをパソコンに保存する。書いたり読んだりすることはできても、印刷を行わなければ形として残らない。たまに推敲用に印刷してみる。朱を入れる。なんとかまとまったところでプリントアウトする。それが私の生んだ形ということに一応なるわけだが、コピー用紙に出力されたノッペリとした原稿を見ても、なかなか「これだ」という手応えは得られない。まあいいか、また何時でもなおせる。ツメの甘さをゆるしてくれる、形にして残すことを先送りさせてくれるのがデジタルでもある。もちろん、これは私の場合。写真も文章も、ケリの付け方残し方が難しくなった。 |